神道政治連盟第20回海外研修並びに第14回時局対策会議~フィリピン慰霊の旅~参加


去る2月4日~7日の日程にて、神道政治連盟主催の第20回海外研修並びに第14回時局対策連絡会議~フィリピン共和国・戦没者慰霊祭~が、団長である内田文博神道政治連盟幹事長始め、神道政治連盟会長長曽我部延昭様、神道政治連盟国会議員懇談会事務局次長、衆議院議員城内実様のご参加の下、総勢50名にて開催された。

一日目
羽田空港に7時30分に集合し、順次搭乗手続き、出国手続きを済ませ、定刻の9:35の飛行機にて一路マニラまで飛んだ。約4時間半のフライトを経てマニラに到着。空港を降りると日本とは別世界で気温30度の真夏日。行き交う人は皆半袖半ズボンの中、私達はスーツを羽織り汗だくになりながら本日の目的地の日本大使館へ。入場許可のタグを受け取り中へ入ると寒さを感じるほど冷房が効いた部屋へ案内された。フィリピンでは冷房は強めに効かせるのが通例なので、寒い人は着るもので調節するようにとの案内があり、大使様のお話を伺う。最初スペインの植民地になり、次いでアメリカに、そして日本、再びアメリカに支配されたという歴史や、第二次大戦中のここマニラでの戦闘はとても激しく、日米の兵隊はもちろんのこと、無辜の10万人におよぶ一般市民が亡くなったこと、キリスト教国であるフィリピン内ではミンダナオ島に住むイスラム教徒との宗教問題があること、現在の中国の領有権問題・覇権主義について、そして先の天皇陛下が慰霊なされたことがいかに国民心情に好影響を与えたかなどをお話し頂いた。特に印象深かったのは、「フィリピンの人の日米に対する感情は愛憎相半ばといったこころが本心だと思う。フィリピン人は「戦時中のことは許します。しかし忘れません」と言っている。だからこそ、我々日本人こそ絶対に忘れてはならない。」というお言葉である。私達日本人は、過去フィリピンを占領し、一般人を殺害した事を忘れてはならないのだと心に深く刻み込んだ。大使館を後にして、研修期間中通してお世話になるホテルへチェックイン。想像以上の豪華さにため息が漏れる。夕食は結団式を兼ねてホテルで懇親会を開催し、参加者全員一言づつ自己紹介をして懇親を深めあった。ビールは南国らしくあっさりした味わいで日本のものに比べると飲みやすいが、杯が進むと次第に特有の甘さが感じられるようになり、私は多くは飲むことが出来なかった。

二日目
8:00にホテルを立ち、バスにてカリラヤ日本人戦没者慰霊園へ向かう。110㎞ほどの道のりだが、マニラは交通渋滞が激しく、そしてフィリピンの道路は日本ほど整備されていないため、3時間以上かかった。慢性的な揺れに悩まされつつ、車に弱い私はなんとかかんとか目的地に到着。ここでは団長と会長が慰霊碑に献花し、全員で再拝二拍手一拝の後黙祷を捧げた。私達の研修団に先立ち、天皇陛下が慰霊の祈りを捧げたこの地で、同様の祈りを捧げることが出来たのは大変光栄なことである。帰りはまた3時間かけて車中で弁当を食べながらホテルへとんぼ返り。デ・ラサール大学のデカストロ教授より「南沙諸島を巡る領土問題と、フィリピンの国防の在り方」という演題で講演頂く。デカストロ教授は偶然にも当日の毎日新聞に領土問題について記事を書いており、この問題について最も良く知る一人である。個人的に興味深かったのは、平成3年のピナツボ火山の噴火により4メートルの降灰があり空軍基地が使えなくなったため米軍が撤退したものの、現在の領土問題が起こることにより再びローテーションで米軍が駐留するようになったとのお話である。これはフィリピン国内でも問題になり、米軍の駐留は合憲かという議論がわき起こったが、昨年裁判で合憲との判決が下されたということであるが、まさに日本も他人事ではなく、違憲、合憲という垣根を越えた、実際にこの問題に対しどのようなビジョンを描くかが大切ではないかと思った次第である。ちなみにデカストロ教授は、毎日新聞の記事で問題を解決する三つの方法というものを提示している。一つ目が日米中がお互いに譲歩するもの。二つ目が中国が譲歩するもの。そして三つ目が中国のルールの傘下に日米が入るというものである。教授は、三番目の選択肢は最悪のシナリオだが、これをどうにか出来る力はフィリピンには無いと仰っていた。今は均衡を保っているが、緊張は高まり続けるばかりで出口は見えない。70年前の二の舞になること(つまり戦略的に重要な地域になり、他国によって支配されること)を非常に恐れている、とも仰っていた。その点で、日本の積極的平和主義に基づく平和法案には期待を寄せているとのことだった。

三日目
三日目は本研修旅行の大きな目的である戦没者慰霊祭を、マバラカットにて執り行った。朝は生憎の雨。これは御英霊のうれし涙であろうか。それとも故郷の地を踏むことができなかった悔し涙であろうか……。目的地までは90㎞の道のりだが、道が悪くやはり目的地へは3時間の道程。ここマバラカットは神風(しんぷう)特別攻撃隊の第一陣である敷島隊が飛び立った空港であり、その精神に感動した現地の郷土史家ダニエル・ディソン氏がその功績を称えて建立した石碑がある。出発時に大地をぬらした雨もマバラカットでは止み、その代わりに神風の名に相応しい強風が吹き荒れていた。地面からロープを張ったにも関わらずテントが吹き飛ばされそうになり、事務局があわててテントの足を押さえる中、石碑の前に斎場を設営し、靖国神社祢宜の山本眞吾様が斎主を務められ、斎主以下祭員4名伶人3名による祭典が執り行われた。修祓、降神、献饌、祝詞奏上と続き、うみゆかばのCDが流れる中玉串を奉って拝礼し、撤饌、昇神の後、参列者全員でうみゆかばを斉唱し、斎主様の発生のもと献杯を行った。斎主様の祝詞はとても感動的で、さぞかし御英霊にはお慶び頂けたことだろう。異国の地で祭壇を組んだり神饌を準備するのも一苦労だったと思う。関わった皆さまに心より感謝申し上げたい。
再び3時間かけてマニラに戻り、フィリピン人戦没者を慰霊する「無名戦士の墓」にて献花し、慰霊した。カリラヤの日本人戦没者霊園に引き続き天皇陛下の慰霊なされた場所で祈りを捧げることが出来たことは望外の喜びであった。私の研修の大きな目的の一つは、陛下の祈りを追体験することであったが、まさしくそれを体験することが出来、一生でも一度あるか無いかという貴重な経験をすることが出来たと思う。
無名戦士の墓で祈りを捧げた後は、数少ないショッピングタイム。世界で9番目の大きさというショッピングモール、「モールオブアジア」で1時間のショッピングを楽しむ。あまりの広さに迷子にならぬようガイドさんが案内してくれ、フィリピンならではの民芸品などを見ることが出来、異国情緒あふれる体験をできた。個人的には中国の春節を祝う飾りがあちこちに掲げられ、中国の影響力の強さを目の当たりにした思いであった。ショッピングの後は近くのスペイン料理屋で夕食をとりながら併せて解団式を執り行う。城内衆議院議員の挨拶の中で「私は趣味で戦前戦中のレコードを収集しているが、その中に『フィリピン独立の歌』というものがある。これは日本人が真剣にフィリピンの独立を考えていた証拠。隣国のように歴史を歪曲し美化する必要はない。日本人は事実をただ発信するだけでいいのだ」というお話があり、心を打たれるとともに現在の中国の覇権主義に対しどのような対策がとれるのかについても考えるきっかけとなった。

四日目
無事慰霊の日程も終え、あとはマニラ市内を観光して帰国するだけの一日。フィリピンにはスペイン統治以前の遺跡は残っておらず、また、ピナツボ火山の噴火により、それ以降の遺跡も多くが火山灰の下に埋もれ、比較的新しいものしか残っていない。そのなかでも最も古いものの一つという教会を見学する。あいにくミサ中で中は見学できなかったが、それでも当時にこれほどの建物を作ることができたことに驚く。さらに驚くことには入り口には狛犬が鎮座している。バスガイドさんのお話では昔中国人がフィリピン人を殺害したときに、それのお詫びとして中国から贈られたものらしい。いずれにしろ教会に狛犬という光景は、異国情緒を感じさせるに十分だった。次はリサール広場へ。フィリピン独立の英雄を顕彰した広場では、日曜日ということもあり現地の人たちが思い思いの休日を過ごしていた。印象的だったのは広場へと続く海沿いの道路の片側が何百メートルにもわたり自動車通行止めになり、サイクリングやランニングを楽しめるスペースになっていたこと。日本では考えられない風景に感心することしきりだった。リサール広場を見学した後はトイレ休憩に、天皇皇后両陛下がご宿泊になられたホテルへ立ち寄る。ホテルのご厚意により中庭も見学することができ、私のような一般市民が生涯泊まることはないであろうホテルの中を見ることができたことは一生の思い出になった。空港からは3時間半のフライトで羽田空港に到着。最後の最後でお腹を壊し、後泊のホテルではトイレにこもりきりだったが、それもまた旅の思い出。間違いなく一生の記憶に残る研修旅行であった。

この機会を与えてくれた各位に心よりお礼申し上げます。

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